VintageRANDONNEURでRANDONNEE その3 三木鉄道跡(2011.3.13)


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近場の鉄道跡探検,今回は三木鉄道です。ここは,JR加古川線の厄神駅から三木まで通っていた路線です。廃線になってからそれほど年月がたっていないので,まだバラストや駅舎などが残っているとか。興味津々のポタリングです。

JR厄神駅(1)は,かつてオリエンテーリングのパーマネントコース「加古川厄神」の発着点でした。当時は三木線も健在だったでしょうが,あまり記憶にありません,残念ながら。その厄神駅の東に三木鉄道が通っていたであろう痕跡がはっきりと残っています。もとがJR線だったので,ホームも供用だったようです。しばらく進むと,柵はなくなり,バラストが敷き詰められた線路跡に立つことができます。すぐ横は,JRの車両基地のようです。自転車で走ってみようと試みるものの,バラストにハンドルをとられて思うように進みません。しかも,パンクしちゃいそう。しかたがないので,線路跡を並走する車道を走ることに。

  
JR厄神駅に残る三木鉄道跡 踏み切りに残る線路
JR厄神駅に残る三木鉄道跡
踏み切りに残る線路

のどかな田園地帯を走っていた三木鉄道は,その痕跡をいたるところに残しています。バラストや踏み切り,踏切には線路や柵も残っています。こんなにもはっきりと跡が残っているのが不思議ですが,跡地の利用法が未定だからでしょうか,それともそれらを撤去する費用が無いからでしょうか。いずれにしても,興味のある者にとってはなかなか楽しい産業遺跡の見物ができます。

  
田園地帯を走る三木鉄道跡 国包駅跡
田園地帯を走る三木鉄道跡
国包駅跡

国包駅跡は,駅舎は撤去され,土台の盛り土だけが残されています。その北には,車道を横切る踏切跡がありましたが,今では線路も撤去され,通り過ぎる車もスピードを落とさず走り抜けています。その踏切脇から線路跡に進入。このあたりは,バラストが固まり,自転車で走れそう。いざ,スタート!走りだすと,問題なし。ただ,バラストを踏む音がするので,気がひけます。それでも気持ちよく走っていると,線路跡は徐々に高度を上げています。と,線路跡がいきなり途切れています。高架になっていた個所を撤去し,下を通る車道の高さ制限をなくすためのようですが,これだとこの線路跡はここで切断されるので,遊歩道に生まれ変わる可能性は小です。それとも,遊歩道として整備する際に,新しく橋をかけ直すのでしょうか。もっとも,ここが遊歩道になるとは限っていませんが。

  
いきなり途切れた線路跡 県道84をくぐる
いきなり途切れた線路跡
県道84をくぐる
  
切通しに残る線路 切通しに残る線路
切通しに残る線路
切通しに残る線路

遮断か所から迂回し,宗佐の集落を抜け,踏切へ。ここから,県道84をくぐるように線路跡は延びています。切通しになっているこのあたり(2)は,線路が1本分だけなぜか残っていたり,両側の法面にそれらしい遺物があったりして,鉄道跡が一番実感できるポイントかもしれません。自転車で線路の間を走るという貴重な体験も可能です。でも,進入禁止かな?その切通しを抜けると,駅舎が見えてきますが,その手前で行きなり線路跡は途切れています。ここも,下を通る車のために高架を撤去しているようです。

  
途切れた線路跡 下石野駅
途切れた線路跡
下石野駅

駅舎は下石野駅のようです。プラットホームはもちろん,当時の時刻表や運賃表,その他の掲示物もあります。線路は撤去されているものの,なぜか枕木だけが残っています。まっすぐに延びる線路跡は,道路ではあまり見ることのできない光景です。線路跡は,下石野駅の先から徐々に高度が落ち,周りの田んぼなどに溶け込むように進みます。線路跡には枕木が残っていたり,踏切跡には線路が残っていたり。枕木の残っている箇所は,自転車で走りやすい。電車の運転手気分で線路跡を進みます。それ以降も,枕木が残っていたり,バラストのために走れなかったり。石野駅には,線路も残り,今にも向こうから列車がやってきそうです。

  
なぜか残った枕木 石野駅
なぜか残った枕木
石野駅

鉄橋を過ぎると,西這田駅(3)です。この駅は,ステンレスの車止めや手すり,点字ブロックを完備した近代的な?駅の造りです。すぐ横の踏切跡には,線路が残り,その両脇には黄黒の斜線の入った柵も残っています。もちろん,当時使われていた時刻表や運賃表,その他の掲示物も残っています。その西這田駅の次は,別所駅です。ここも駅舎が残り,その脇にはクラシカルなトイレも完備されたままです。線路も残り,当時の様子がリアルに感じらえます。別所駅の次は,高木駅です。ここは線路はありませんが,駅舎は当時のままです。

  
線路の残る西這田駅の踏み切り 西這田駅
線路の残る西這田駅の踏み切り
西這田駅
  
西這田駅の時刻表 西這田駅の運賃表
西這田駅の時刻表
西這田駅の運賃表

そして,終着駅の三木駅(4)です。現在は,三木鉄道記念公園として整備され,人々の憩いの場となっているようです。メインの建物の中は,集会場と三木鉄道記念グッズの展示室になっています。また,横では,三木の特産品を売るお店が出ています。西にプラットホーム跡らしき場所は,ベンチのある休憩所になっており,その向こうにはゲートボール?に興じるお年寄りたちが見えます。三木鉄道は,廃線後も,そののどかな雰囲気を保ち続けているようです。

これにて,三木鉄道廃線跡ポタリングは終了。あとは,ふだんは通り過ぎるだけの三木の町を見物しましょう。

  
線路の残る別所駅 高木駅
線路の残る別所駅
高木駅
    
線路を使った歩道 三木鉄道記念公園
線路を使った歩道
三木鉄道記念公園
          
三木鉄道記念グッズ 三木鉄道記念グッズ三木鉄道記念グッズ
三木鉄道記念グッズ
三木鉄道記念グッズ
三木鉄道記念グッズ


ひめじ道と土蔵群・町家
○ひめじ道
天正8年(1580年)三木城主となった秀吉は,合戦の時に疎開させていた領民を呼び戻し,城下町を再興しました。秀吉は播磨の中心地を三木の地とし,三木城を播磨の拠点としました。
一方,中国地方の毛利攻めの拠点として姫路を定め,3万の大軍を姫路に移動させました。その時に旧道を改修してつくった道がこの「ひめじ道」で,江戸時代には参勤交代の大名行列が通った街道として語り継がれています。
この街道筋には今も昔を物語る町家が残されており,ここ下町には道が直角に曲がった鍵型の辻が見られます。

○土蔵群と町家
ここ下町のひめじ道沿いには,歴史街道の趣を漂わす旧?油屋などの切り妻の瓦屋根,漆喰塗と黒板壁等で構成される土蔵群や,虫籠窓,格子窓,絵付きの卯建を持つ町家が残っています。
    
土蔵群 下津の道標
土蔵群
下津の道標
下津の道標
江戸時代から明治の初めにかけて,美嚢川には「上津」「中津」「下津」という三か所の船付場があり,その内の一つがここ下町の河川敷にあった「下津の船付場」です。
当時の河川敷にあった「下津の船付場」には幅1mの板橋が二つ,往復用に架けてあり,その板橋は「下津橋」と呼ばれていました。
この道標は,ここ下津から加西の法華山一乗寺への道しるべとして,西国霊場めぐりをした者がその供養のため,明治の中期に建立したようです。
右は「法華山」左は「姫路」を示しています。
    
絵付きのうだつ 立石の道標
絵付きのうだつ
立石の道標
    
旧三木実業高等女学校校舎 別所長治公石像
旧三木実業高等女学校校舎
別所長治公石像
別所長治公石像について
戦国時代,三木城を居城として東播磨地方を領有した戦国大名別所氏の五代目当主,四代目安治の嫡男で小三郎長治という。安治が39歳の若さで病死したため,13歳で当主となる。当時,天下統一を目指していた織田信長と同盟関係にあったが,のちに中国地方の戦国大名毛利氏に味方したため,信長は家臣の羽柴秀吉に命じて三木城を攻めた。秀吉はほぼ2年間にわたり三木城を包囲し兵糧攻めにしたことから,三木合戦といわれるこの戦いは,“三木の干殺し”と呼ばれている。長治は,飢えに苦しむ家臣・領民の命を救うことを条件に自害することを秀吉に申し入れ,天正8年(1580)1月17日,一族とともに自害した。享年23歳といわれている。
この石像は,三木ライオンズクラブが結成40周年を記念して,長治公の武者姿をイメージして製作され,市が寄贈を受けたもので,史実に基づいた姿ではありません。

                三木市
            
別所長治公辞世の句碑 三木城想像図三木城祉内略図
別所長治公辞世の句碑
三木城想像図
三木城祉内略図
三木城祉
三木城は,室町時代の15世紀後半に別所則治によって築かれ,以後別所氏の居城となりました。天文7〜8年(1538〜1539)に山陰の戦国大名尼子詮久(晴久),天文23年(1544)には三好長逸や三田の有馬氏に攻められましたが,落城は免れています。
天正6年(1578)五代目城主別所長治のとき,織田信長の家臣羽柴(豊臣)秀吉の軍に包囲され,1年8ヶ月に及ぶ兵糧攻めに遭い,天正8年(1580)1月17日,城主一族は領民の命を救うために自刃して三木城を開城しました。その後は,羽柴秀吉はじめ家臣の杉原氏・中川氏などが城主として次々に入れ替わりました。江戸時代になって,元和2年(1616)小笠原忠真を領主とする明石藩に編入され,元和3年(1617)に幕府による一国一城令により廃城となりました。このとき,三木城の資材は明石城の建築部材として使用されたと伝えられています。
当時の城の規模は,本丸(上の丸公園),二の丸(図書館・美術館周辺),新城・鷹ノ尾城(市役所周辺)などからなり,東播磨随一の要害でした。南に位置する雲龍寺周辺も三木城の一角であったと考えられています。
この雲龍寺には別所長治夫婦の首塚があり,毎年1月17日の命日には,長治公を偲んで法要がおこなわれ,兵糧攻めによる飢えから,籠城した兵士が壁土の藁を食べたという言い伝えに習って藁に見立てたうどんが振舞われます。
    
かんかん井戸 三木城址から見る三木の町
かんかん井戸
三木城址から見る三木の町
本丸井戸(かんかん井戸)
この井戸は三木城本丸に残る唯一の井戸で口径3.6m,深さ約25mを測る大きなものです。石を投げ込むと「カンカン」と音がすることから「かんかん井戸」とも呼ばれています。
城内にある雲龍寺には,この井戸から出土したと伝えられる,城主別所氏愛用の鐙が大切に保存されています。
    
別所長治夫妻の首塚 別所家霊廟と東播八郡の碑と別所長治公石像
別所長治夫妻の首塚
別所家霊廟と東播八郡の碑と別所長治公石像
法界寺 別所長治公祥月命日法要
当寺に長治公の遺体を埋葬後,命日の4月17日には関係の老若男女が相集まり,公の冥福を祈る法要が続けられている。
また,三幅の三木城合戦絵図により,当時の壮烈な戦況と,公の遺徳を偲ぶ「絵説き」の行事が絶えることなく続けられている。


   今はただうらみもあらじ諸人の 命にかわはわが身と思へば 別所長治辞世

   もろともに消え果つるこそうれしけれ おくれ先たつならひなる世に 長治公奥方辞世

 


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