スイレン花見カヌー&浦富海岸遊歩道散歩 (2010.6.12)


今回のカヌーは,スイレン見物ということもあってか,朝の開催です。まだ梅雨入りはしておらず,当日は快晴。昼間は夏日の予報が出ていますが,朝はやはり寒い。特に,バイクで風を切ると,ウインドブレーカーを着ていても次第に寒さが感じられるようになってきました。この予想外の寒さにビックリ。これでカヌーをしたら,寒いやろうなぁとチョット心配。

2時間ほどのツーリングで鳥取着。そこから多鯰ヶ池は,もうひとっ走りです。多鯰ヶ池に着くと,カヌーは置いてありますが,誰もいません。集合時刻の1時間近くも前なのですから,当然でしょう。そこでまずは,弁財天の見物です。幟が立ち,池に突き出た小高い半島状の森の中にあるようです。石の鳥居をくぐり,参道を行くと,ほどなく前方に社務所が見えてきます。中は電気がともり,何人かの人がいるようです。社務所があることにもビックリですが,人がいるということにもビックリ。そんなに大きな神社には見えないのですが。これまた立派な本殿は,左手の石段を上った所にあります。見ると,参拝している人もいて,地元では有名な神社のようです。境内には多鯰ヶ池にまつわるお種伝説の説明板もあります。伝説の内容はよくあるものですが,「柿」というのが珍しいかも。池の中程にある小島には,今は柿の木はないようですが。

  
弁財天 石の鳥居 弁財天 本殿
弁財天 石の鳥居
弁財天 本殿
弁財天古墳とお種伝説
満々と水を湛える多鯰ヶ池には,大蛇にまつわる「お種伝説」が残り,湖畔には数多くの古墳が所在しており,池の中程に浮かぶ小島からは祀りの対象としたであろう小さな土製馬も出土しています。
この社叢内にも直径20mの弁財天古墳と呼ばれている円形の古墳が所在しており,この古墳に接して弁財天の社殿が鎮座しています。
弁財天は七福神の中では唯一の女神で,その起源はインドとされ,水の神として信仰されたことから。海辺や湖辺に祀られていることが多く,水の流れる音から音楽,弁舌,知恵の神として信仰されてきました。更に水に関連して蛇や龍と結びつくことも多く,白蛇がご神体となっているものもあり,金銀財宝をもたらしてくれる「銭洗弁天」の呼称でしられる弁財天もあります。
この多鯰ヶ池周辺には,弁財天信仰とお種伝説にまつわる多くの共通点がみられ,悠久の時を経ても多鯰ヶ池周辺が神秘的な聖域として保護されてきた所以でしょう。
福部村教育委員会
お種の伝説
 この多鯰ヶ池には,蛇(龍)の化身とされるお種の伝説」が伝承されています。それは古くから次のように語り継がれています。
 昔,国府町に裕福な長者が住んでおり,そこにはたくさんの使用人が働いていました。この長者の家にあるとき,福部町の細川から「お種」という美しい女の人が雇い入れられました。この長者の家では,夕方になると,仕事を済ませた大勢の使用人が,三人四人と集まって世間話をするのが通例でした。ところが,誰かが「腹 がへった。」「何かうまいものが食いてえなあ」と言うと きまってお種が甘い柿の実をたくさん取って来るのでした。初めは誰も不思議に思わなかったのですが,度重なると,中には疑いだす者もおり,あるとき若者がお種のあとを追ってみました。すると,お種は 多鯰ヶ池に着くなり,着物を脱いで蛇体となり,池の中程の小島までスル,スルッと泳ぎ,そこにあった柿の木によじ登って柿の実を取ろうとしていました。これを見た若者は,びっくり仰天震えながら走って逃げ帰りそのありさまを一部始終長者に報告しました。一方,自分の素性を知られてしまったお種は,その夜限りで長者の家には帰らず,そのまま多鯰ヶ池の主になってしまいました。長年,長者の家に住んでいた老婆は,このことを聞いてお種を大層憐れみ,池のそばに荒神さんの祠(現在のお種の社)を建てて祀ってやりました。そして,毎年村の子どもたちを連れて,一斗五升の小餅を木の葉の一枚一枚に載せて,池の中に流してやり,供養してあげました。
 以上のような伝説が,この池に古くから伝わっています。 多鯰ヶ池と大島に鎮座する多鯰ヶ池弁天宮には,この伝説と弁天信仰が深く関わっているのです。
                                         福部村

集合時刻が近付き,参加者が集まってきました。今回は,カヌー講座のメンバーだけではなく,一般参加者も多数います。子どもたちの参加も多く,二人乗りカヌーがあり,いつもとは違う雰囲気です。簡単なレクチャーを受け,早速,多鯰ヶ池へ漕ぎ出します。風はなく,波もなく,もちろん流れもれなく,のんびりカヌーです。水面を覆うスイレンは,小ぶりな花をいっぱいにつけています。近寄ると,花の香がもかすかに漂ってきます。水面をよく見ると,スイレンにまじって鋭いとげのあるヒシの実があちこちに浮いています。昔,忍者が「マキビシ」に使っていたそうですが,なるほど,こんな実を撒かれたのでは,歩けたものではありません。

  
スイレン ヒシの実 get!
スイレン
ヒシの実 get!

池の中ほどにある小島には,石柱が建っていますが,それ以外には何もないようで,やはり柿の木もないようです。その小島を中心にして右回りに池を周回。岸に近づくと,透き通った水の中に何匹もの小さな魚が見えます。聞けば,ブルーギルの幼魚だろうとか。こんな神聖な池にもブラックバスやブルーギルが繁殖しているなんて,お種さんもビックリでしょう。思い思いのペースでカヌーを漕いでいるので,みんなバラバラ。「もう少しペースを上げてくださ〜い!}とスタッフの声。池の中央部に着くと,底が浅くなっており,石の人工物(石像?)が見えます。今は,池の水が多いので水没していますが,ふだんは水上に見えているそうです。

岸に沿ってカヌーを進めます。湖岸には岩が目立ちます。砂丘の中の池ということで,周りが砂だらけと思いきや,大違い。それもそのはずで,この池は,もともとの谷が北からの砂でせき止められた池だとか。だから,北と南では岸の地質が違うようです。この多鯰ヶ池,水の出る川もなければ,水の入る川もない,いわば,摩周湖のような池です。

多鯰ヶ池
鳥取砂丘の背後に位置し,森に囲まれて透明度の高い美しい水をたたえ,鳥取砂丘の起伏の大きな雄大な景色と好対照をなしている。
池の周囲3.4km,面積は24.8ha,最深部の水深は15.1mで,中国地方最深の池である。透明度は4mある。山地に面した南側は湾入部の多い複雑な地形だが,砂丘に面した北側は直線で,砂丘から急斜面で最深部に達している。夏季の灌漑用水路として利用されている湯山用水以外に流入河川も流出河川もない。池の周辺には多くの遺跡があり,古くから砂丘の休止期に先人が生活していたことが分かっている。多くの湖沼と同様に蛇伝説がある。
2001 年,環境省によって日本の重要湿地500に選定された。
新生代第四紀更新世にあたる約10万年前頃に,背後の丘陵前面の浸食谷に古砂丘が発達,その上を約5万年前の大山火山の活動で噴出した大山倉吉軽石が覆って,水が浸透しなくなったことが成因とされている。海跡湖か堰止湖かで論議されたが,現在では山陰最古の堰止湖ということになっている。
         Wikipediaより

やがて,池の西橋に近づくと,何やら古びた建物が見えてきました。聞けば,建物ではなく,陸揚げされた遊覧船だとか。その手前には,朽ちかけた桟橋もあります。かつては,この多鯰ヶ池をこの遊覧船が周回していたのでしょう。そういえば,カヌーを乗ったとこりに貸しボートもありました。ということは,何十年か前は,鳥取砂丘見物の人たちがこの多鯰ヶ池にも観光に訪れていたのでしょう。今はすっかり寂れ,静かな池となっていますが。

  
スイレンの中をGO! かつては賑わったであろう遊覧船と桟橋
スイレンの中をGO!
かつては賑わったであろう遊覧船と桟橋

桟橋をあとに,今度は北側の岸に沿って帰ります。あいかわらず,水面にはスイレンが咲いていますが,もう見飽きたのか,それほどカヌーのスピードは落ちることなく,淡々と進み,やがて弁財天のある半島へ。その半島をグルリと回ると,出発地が見えます。少し汗ばんだ身体に水面を渡る涼風が気持ちいい。カヌーって,いいねぇ。

  
スイレンの中を戻りましょう
スイレンの中を戻りましょう

カヌーツーリングを終え,それだけで帰るのはもったいないので,かねてから行ってみたかった浦富海岸遊歩道を散策することにします。それほど距離のない遊歩道ですが,暑さは覚悟しなければなりません。出発地点の網代港へ行き,遊歩道入口へ。案内板もあり,その脇にはコンクリートでできた階段もあります。崖に沿って登る遊歩道を少し行くと,足元に網代の集落が見えてきます。遊歩道をさらに登るとT字分岐点へ。左手に行くと,さらに道は上りが続き,右手にはおしろいの断崖や千貫松島が望めます。ほどなく,小さなピークに着きます。ここには建物があり,中を見ると神社のようですが,外観はただの小屋です。海から吹き上げてくる風が,汗ばんだ身体に気持ちいい。それにしても,朝の寒さは何やったんや!とツッコミたいぐらいの暑さです。すっかり夏です。

            
地図 浦富海岸遊歩道
地図 浦富海岸遊歩道

神社?をあとに,遊歩道に戻ります。少し下った所には,千貫松島(@)を展望できる展望台があり,その脇まで人家が迫っています。千貫松島は,洞門もいいですが,その上にポツンと生えた一本の松がいいアクセントになっています。よくぞまぁ,こんなものが自然にできたものだと感心させられます。しかも,周りの節理も見事です。ジオパークに相応しい光景が広がっています。

            
千貫松島 おしろい岩崖
千貫松島
おしろいの断崖
千貫松島
眼下左の周囲50米,高さ25米の島の頂上にはみごとな老松が生えていて,寛文年間(今から300年前),鳥取城二代目藩主,池田綱清公が船で島巡りをした際,「わが庭にこの岩つきの松を植えたものには銀千貫を呈す」といわれたことから千貫松島と名付けられています。
初代の松は枯れて今のは二代目といわれていますが,島には奥行20米の洞門があり,優美な景観は今もそこなわれていません。
           自然を大切に 
千貫松島
奥行き20mの洞門があるこの美しい島の名前は,寛文年間(1661〜1673)に鳥取藩主の池田候が船で島巡りをした際,「わが庭に岩つき松を植えた者には銀千貫を呈す」と感嘆したことから名づけられたと伝わっています。

展望台をあとに, 遊歩道を進みます。しばらくは展望がなくなりますが,日陰なので涼しい。再び,尾根道に出ると,今度も左手にも道があります。行ってみると展望台です。千貫松島はもちろん,遠くには鳥取砂丘が見えています。足元の海には,漁船にまじって遊覧船も見えます。陸から海から,見応え充分の浦富海岸です。

            
海賊洞門 網代燈台
海賊洞門
網代燈台

遊歩道に戻り,歩を進めます。よく整備されたこの道は,アップダウンはあるものの,歩きやすい道です。しかも,複雑に入り組んだ海岸を見ながら歩けるのですから,申し分ありません。迫力のある海岸を眺めながら,やがて,燈台(A)へ。

←980m鴨ヶ磯海岸 480m休憩所  ↓網代700m  →やまみち
網代崎燈台 初点 昭和24年4月  改築 昭和56年3月

そして,燈台から下ると,観音浦(B)です。案内板によると,このあたりから三ツ大島が見えるとありますが,残念ながら今では茂る木立で展望がききません。

観音浦
この眼下の入江を漢音浦と呼んでいます。平城天皇の頃(806年)この西方の観音島から黄金の観音像が発見され,それ以来この一帯は海の聖地として住民の信仰を得ています。また,前面にある大きい三つの島を三ツ大島と呼んでいます。
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「浦富海岸海中公園地区
この附近一帯の海面9.8ヘクタールは山陰海岸国立公園の中でも特に海中の景観にすぐれているため,昭和46年1月,海中公園に指定されています。
海中の植物は主としてホンダワラ類,テングサ,ミルで,魚類としてはキス,メジナなどが群生し,透明度は25mにも達しています。
    自然を大切に
            
観音浦 あちらにもこちらにも洞門あり
観音浦
あちらにもこちらにも洞門あり

観音浦から少し歩くと,今度は前方に鴨が磯海岸見えてきます。網代休憩所の前を通り,道は下り坂になります。下り切った所も,大小様々な岩ヶ点在する岩場になっており,その間を寄せ返す海の水は透き通っています。透明度の高いこのあたりの海が,海中公園となっているのもうなづけます。この鴨が磯海岸(C)にも見所は多く,酒盛り洞門をはじめとする大小の洞門がいくつもあり,蛙岩と呼ばれる岩場などもあるようです。

            
鴨が磯海岸 酒盛り洞門
鴨が磯海岸
酒盛り洞門
鴨ヶ磯
青く透き通る水と,湾内に浮かぶ太郎兵衛島・夫婦岩・蛙島などの島々が創り出すこの海岸は,文豪島崎藤村が「松島は松島,浦富は浦富」と絶賛したと言われる山陰随一の景勝地です。
海中公園
リアス式海岸特有の複雑な地形と透明度が8〜25mと非常に高い海水により海中景観がすばらしい地区です。彬には対馬暖流にのって北上する熱帯魚が見られます。

しかし,この風光明美な鴨が磯に似つかわしくないものがあります。日露戦争で戦死したロシア軍の将兵の遺体が流れ着いた記念?の碑だそうです。今では日露の平和の象徴となっているようですが,眼の前に広がる明るく美しい日本海を舞台に繰り広げられた暗い歴史の一端が垣間見えるようで,当時を想像するとちょっと複雑な心境になってしまいます。

露軍将校遺体漂着記念碑 昭和37年6月澤田廉三書
第7回環日本海圏地方政府国際交流・協力サミット開催記念  露軍将校漂着記念碑案内板
明治38年(1905年)5月27日に日本海海戦が終わりました。その約3週間後の6月17日に,旧田後村の漁師2人が,それぞれ田後港から20kmほどの沖合で,ロシア将兵の水死体を発見し,船で港へ連れ帰りました。当時は意見の対立もあったといいます。しかし,「いったん仏になったからには,丁重に葬り供養するがよかろう」という意見が人の子の心情に合致し,青い波が打ち寄せては返す,白砂青松のこの磯部で,2人のために葬儀を営み埋葬しました。戦後,ロシアとの和平が成立した後に,この2人の将兵の親族と思しき人たちがやって来て,遺骨を彼らの故国へと持ち帰ったと伝えられています。この池,田後の椿谷に建てられている「露軍将校遺体漂着記念碑」並びに「碑文石」は昭和37人に,岩美郡浦富出身の元国連大使であった故澤田廉三氏(明治21年〜昭和45年)が,当時の田後村民の“人類愛”を顕彰しようと思い立ち,建立したものです。
    2000年11月10日  ロシア沿岸地方 日本国鳥取県
            
鴨が磯海岸に建つ露軍将校遺体漂着記念碑
鴨が磯海岸に建つ露軍将校遺体漂着記念碑
浦富海岸海中公園地区
鴨ヶ磯から城原海岸にかかる9.8ヘクタールの海中は,“浦富海岸海中公園地区”に指定されています。
リアス式海岸で,海上には大小の島々,岩礁が点在しています。海水には対馬暖流の影響を受け,透明度は8〜25メートルあります。
海中景観は海草が主体で,ホンダワラ類,テングサ,ムカデノリ,フサイワヅタ等の海草が繁茂し,スズメダイ,メジナ等のさまざまな魚類が群遊しています。
日ロ友好の輪を
明治38年5月,日露戦争・日本海海戦の後,旧田後村に漂着したロシア軍将兵2人の遺体を村民が手厚く葬りました。そして,昭和37年に浦富出身で元国連大使の故澤田廉三氏が,当時の村民の人類愛を顕彰しようと,この地に記念碑を建てました。
柱状節理
このあたり一帯は,今から約6000万年前(中生代白亜紀末か新生代第3紀のはじめ)にできた黒雲母花崗岩からできています。前面の崖の岩石は,花崗岩のあとからできた石英斑岩で,柱状の節理(割れ目)が発達しています。柱状の節理は一般には玄武岩や安山岩などの火山岩によく発達しますが,石英斑岩ではあまりみられず,珍しいものです。この節理は,岩石が冷却していく時,体積の収縮でおこってできた冷却節理です。
               自然を大切に

鴨が磯をあとに急な山道を登り切ると,今度は菜種五島の出現です。その昔,菜種を運んでいた船が遭難して,積み荷の菜種がこの島に流れ着き,それ以来この島には春になると菜種が島全体を覆うように咲き乱れるとか。観光案内にもよく登場するこの島ですが,一面に菜の花が咲いている写真を見たことがありません。菜の花が小さすぎるので,写真には写らないのでしょうか。それとも,大げさに表現しているの?

山道から海岸に降り立つとそこは城原海岸(D)です。節理の見事な岩場が点在しています。もちろん,海の水は超透明!こんな所をシーカヤックで遊ぶのも楽しそうだし,潜るのも楽しそう。夏は多くの海水浴客で賑わうのでしょうねぇ。

            
節理が見事な城原海岸
節理が見事な城原海岸
山陰海岸国立公園  海中公園 城原海岸
城原海岸
海岸一帯は数多くの奇岩・岩礁が点在しています。沖合の菜種島は周囲約400m,高さ約60mの島で,春には野生化した菜の花が咲き,島全体を黄金色に飾ります。

1時間余りの遊歩道の散歩を終え,帰りは車道をスタコラサッサ。30分足らずで出発点に戻ってきました。今年初めての夏日を記録したこの日。暑さはそれなりでしたが,何より,美しく迫力のある海岸美を楽しむことができ,大満足です。カヌーの良さと歩きの良さを一度に確認できた楽しい一日でした。カヌーをお世話してくださったスタッフのみなさん,ありがとうございました。そして,この山陰海岸が今年こそは世界ジオパークに認定されることを願っています。


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