多田銀山鉱物採集会(2004.3.14)


  
P・@〜G
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MTBで何度も訪れたことのある多田銀山ですが,そのときは単なる通過点でしかありませんでした。ですから,抗口すらじっくりと見たことはなく,どこに何があるかなんて,まったく知りませんでした。今回,益富地学会館の主催で鉱物採集会があると知り,S田さんを誘って参加することにしました。

銀山の歴史
多田銀山は多田鉱山ともいい,奈良時代(1200年前)東大寺の大佛鋳造のために銅を献じたといわれる古い銀や銅の産地です。1570年豊臣秀吉により銀山を盛大に開発され,最も栄えました。大阪城築城の際台所をうるおすことが大きかったとみえ,台所間歩(坑道)とか瓢箪間歩などの抗口の名が付けられています。当時は世帯数3千,人口1万5千あったといわれ,今もなお本町,新町など,山里とは思われない地名が残り,かつての銀山町を物語っています。1615年江戸に入り,銀山及び付近の諸村は天領となり,大口間歩を中心に大いに開発され,年建上銀(租税)660貫(2475t)銅70万斤(420t),に及んだと伝えられています。貫文2年(1662),銀山代官所が設置されました。当時の銀山業者には絵具屋吉兵ヱをはじめ布屋利兵ヱ,大阪屋や泉屋(現在住友)があり,明治になり三菱が稼行し,明治30年堀藤十郎の所有となりました。明治38年機械選鉱及び精錬所が新設されたのですが,明治41年日露戦争の影響で休山となりました。昭和19年日本鉱業が鉱区買収し,昭和48年まで粗鉱を月産1000t程度採鉱しましたが,現在は休山しています。
     元京都大学小葉田教授  昭和55年9月調査による

銀山入口の駐車場に車をとめ,採集場所であるジャリ池に向かいます。今回の世話人の人と一緒に,鉱物についてのお話を聞きながら,暖かい春の日を浴びながらのんびりと歩きます。MTBで走れば,すぐに感じる距離ですが,歩きとなるとけっこう時間がかかります。金山彦神社や青木間歩を右手に見,畑を抜けると番所道です。池のほとりを過ぎ,峠を過ぎるとズリ(@)です。このズリは,石金間歩のズリのようです。

元禄元年(800年代)源満仲が多田に新田城築城の頃,金瀬五郎が銀山川で白金(銀)を発見し,満仲に献上。到達した大金ひ(鉱脈親鉉)の,金懸け間歩,十六人間歩,菖蒲谷間歩一帯を柵内銀間歩と称して盛んに稼行。源氏の重要な財源として,大いに栄えたのです。(当日配布資料より)

ジャリのような小さな石がたくさんあります。よく見ると,青い色をした石があります。孔雀石です。ブロシャン銅鉱や青鉛鉱の青緑もきれいです。これらの鉱物は,二次鉱物と呼ばれています。

孔雀石 Cu(CO3)(OH)2
銅鉱床の酸化帯に最も普通に産出する鉱物で,塊状・皮殻状・針状結晶・繊維状等をなし,希塩酸に発泡して溶ける。珪孔雀石・赤銅鉱などをともなうことが多い。

ブロシャン銅鉱 Cu4(SO4)(OH)2 
銅鉱床の酸化帯に,緑色の針状や粒状の結晶をなして産出する。ブロシャン銅鉱は,孔雀石とよく似ているが,孔雀石のように放射状の集合体をなすことが少ない。また孔雀石は,希塩酸に発泡して溶けるが,ブロシャン銅鉱は発泡しないで溶けるなどで区別できる。また石膏をともなう場合は,ブロシャン銅鉱と考えてよい。

青鉛鉱 PbCu(SO4)(OH)2
鉛・銅鉱床の酸化帯に白鉛鉱・孔雀石などをともなって普通に産出する青色の2次鉱物である。藍銅鉱と色,産状などは似ているが,藍銅鉱は希塩酸に発泡して溶けるのに対し,青鉛鉱は発泡しないで溶けることからかんたんに区別できる。多田鉱山付近では,小規模な鉱山がたくさん採掘されていたが,いまでも鉱山跡にはズリの残されている所があり,ズリからは銅・鉛・亜鉛などの2次鉱物を採集することができる。

  
益富地学会館藤原さんの説明を聞く ジャリ池近くのズリで採集中
益富地学会館藤原さんの説明を聞く
ジャリ池近くのズリで採集中

益富会館の藤原さんの説明の後は,各自でズリの中から宝捜しです。早速,自然銀を見つけ出した人がいます。どんなものかと見せてもらうものの,一体,何がなんやら???なんのこっチャ,烏龍チャ,抹チャに紅チャ。そんなものより,色鮮やかな青鉛鉱や孔雀石,ブロシャン銅鉱の方がきれいです。

自然銀
石英の割れ目に,銀白色〜帯桃銀白色の箔状で染み込んだような状態で産する。他の二次鉱物がほとんど含まれていないような石英中に意外と産するので注意が必要である。

方鉛鉱
石英中に産し,やや青みを帯びた鋼灰色・金属光沢で,サイコロのように立方体に割れる劈開が特徴。

黄銅鉱
石英中に産し,真鍮色,金属光沢,黄鉄鉱に似ているが,黄鉄鉱より黄色味が強く割れ口が貝殻状になり,酸化面が虹色になることで区別できる。

斑銅鉱
石英中に産し,新鮮な破面は銅赤色金属光沢であるがすぐに酸化されて青・紫の虹色に変化するのが特徴である。黄銅鉱の酸化された破面に色がよく似るので,割って新鮮な面を出して鑑定する必要がある。

  
青鉛鉱など 孔雀石など
青鉛鉱など
孔雀石など

しばらく,ハンマーを振るってカンカンとやりますが,当然の如く,飽きてしまいました。でも,周りを見ると,飽きるなんてことは不謹慎と思えるほどの入れ込みようです。これは毎度のことですが,まるで何かにとりつかれた人々のようです。そんな人たちを横目でみながら,ランチタイムです。いつものようにコンビニ弁当にこうどん,食後のコーヒーもいただき,満腹,満腹。お腹がいっぱいになると,暖かい春の日差しが眠気を誘います。しばらく,横になりうとうと。前日の神戸ハーバーランドのオープンデッキでのランチといい,今日のランチといい,やわらかな春の日差しは気持ちいいものです。

時間が来たので,次の採集地に向かいます。台所間歩の手前の谷(A)に向かいます。ズリらしいものは見つからず,収穫無し。この後,台所間歩と瓢箪間歩に向かいます。台所間歩は半壊。その奥の瓢箪間歩は,柵はあるものの抗口はきれいに残っています。手掘りにしては,大きな抗口ですが,それでも馬に乗って入ることはできないでしょう。

台所間歩
この間歩は,その運上銀で大阪城の台所入用費をまかなったところから名づけられた。ともに銀山よりの採掘銀銅により,大阪城の経費の大部分を維持されていたと推測され,重要な財源であった。

瓢箪間歩
足利時代より採掘されていたが,豊臣秀吉の時(1560〜90年)永禄〜天正にかけて全盛をきわめた時,原丹波,原淡路父子に秀吉から馬印の千成瓢箪を与えられ,これを抗口に立てたところから名づけられた。この坑道内に,秀吉は馬に乗って入ったと伝えられている。

次は,青木間歩です。青木間歩の谷には,手掘りの小さな抗口がいくつかあります。S田さんは探検に行きましたが,とても入れそうにないとのこと。

こちらの青木間歩は,戦後の日本鉱業が機械掘りをした坑道で,立って入れるほどの大きさです。しかも,中は電灯がついており,観光施設になっているようです。坑道の奥の頭上には,孔雀石が脈状に出ています。あちこちに手掘りの坑道もあります。

青木間歩
薬用植物として利用されるアオキが繁茂していたことからその名がついたとの説もある。鉱床の発見は明らかではないが,手掘りのみによる休抗と日本鉱業(昭和29年から48年まで多田銀銅山にて採掘)により機械を使用した新抗(下)もあり,比較するとおもしろい。
  開門時間 午前9時〜午後5時  12月29日〜1月3日までは閉門します

  
青木間歩 電灯のついた坑道
青木間歩
電灯のついた坑道

この坑道の年代は特定できませんが,鉱脈に沿ってノミやタガネを使って掘った手堀跡です。

  
坑道上部の孔雀石
坑道上部の孔雀石

脈状鉱脈
鉱石の生成時代は白亜紀後期ないし末(6400万年前後)と考えられる。火成佐用により,鉱脈が安山岩,流紋岩中を切って存在する。主要鉱物は石英脈中に銀鉱物,班銅鉱,黄銅鉱,方鉛鉱,セン亜鉛鉱が見られる。
鉱石1トン当たり  金0.2g 銀0.584kg 銅20.9kg 鉛5.3kg 亜鉛28.0kg 石英残砂7220kg その他の残砂223.8kg

この他,近くには,日本鉱業事務所跡や精錬所跡,牢屋跡なんてのもあるそうです。もう一度,じっくりと多田銀山を散策してみたいものです。


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