第15回石ふしぎ大発見展 〜京都ショー〜  (2003.10.11)


今回で15回目の開催となる「石ふしぎ大発見展」です。広いホールには,150社近くの売り場が設けられ,別室では,「京都大学総合博物館秘蔵鉱物標本初公開」や「鉱物写真展『闇の結晶 光の沈殿』」,「イベント“石のはんこを作ろう”」なども行われていました。また,ボクがいつも楽しみにしている特別講演が今年も開かれ,興味深いお話を聞くことができました。

ホールの売り場では,鉱物が中心ですが,化石や庭石,宝石類もたくさん売られていました。値段も店によってまちまちです。安いのはそれなりの価値しかないのでしょうが,素人のボクにはその価値がわかりません。いったいこれだけの売り場で,どれぐらいの売上げがあったのでしょう。素朴な疑問です。

  
石ふしぎ大発見展 石ふしぎ大発見展会場
石ふしぎ大発見展
石ふしぎ大発見展会場

  
イベント“石のはんこを作ろう” 石,石,石,…
イベント“石のはんこを作ろう”
石,石,石,…


特別展示
   京都大学総合博物館秘蔵鉱物標本初公開 京大が守り伝えた明治・大正の日本産鉱物標本

  
乙女鉱山の日本式双晶 市ノ川鉱山の輝安鉱
乙女鉱山の日本式双晶
市ノ川鉱山の輝安鉱


 京都大学総合博物館
 住所 〒606−8501 京都市左京区吉田本町
     [東大路通今出川(百万遍)を約100m下がる東側]
     電話番号 075−753−3272
     HP http://www.museum.kyoto-u.ac.jp./indexj.html 
 開館時間 9:30−16:30(入場は16:00まで)
 休館日 月曜日・火曜日(平日・祝日にかかわらず)
      年末・年始(12月28日〜1月4日)
 観覧料 一般400円,大・高校生300円
      中・小学生200円(団体割引有り)
 ◆ 駐車場がありませんので公共交通機関をご利用ください。

 

京都大学の特別展示は,「秘蔵」と名のつくほどのことかなぁとちょっと疑問。これなら,生野ミネラルコレクションのの方が見事な標本がありそうです。でも,こんな標本をもっていたり,それらを博物館として一般公開しているというのは,さすが京都大学って感じ。学生のころは,京都に4年間住んでいたボクですが,京大の博物館の存在なんて,まったく知りませんでした。

 


 

特別講演会


京都路傍の石 99選
(計画と2・3の例)  横山卓雄(同志社大学名誉教授)
*以下は配布資料より抜粋

弁慶石  中京区三条通御幸町西入る

中京区三条麩屋町の地を弁慶石町といい,いま三条通りの北側へ石を出して標示がある。口碑によると,はじめ賀茂川の岸,鞍馬口にあったが,洪水で今の地に流れてきた。それを塩小路の水薬師寺に引き,ふたたび同町に返し,さらに東山に移し,また帰り,天明8年に京極の誓願寺に預けた。都花月名所に同寺方丈庭中にあると見える。明治26年3月同町にもどり,洋服屋の庭先にあったが,昭和4年7月に三条通へ出したのであるという。
山城名勝誌第5には編年合運図を引き,享禄3年に奥州の弁慶石を京極律寺へ置いたと記し,享禄元年7月16日に衣川の弁慶石が三条京極に入洛したと書いた年代記も引いている。武蔵坊弁慶が愛した石でもあるとも,衣川で立往生した弁慶がこの石になったともいうが,岡田次郎左衛門氏の話によると,まったく別もので,同町にいた大工の弁慶仁右衛門の庭先にあった石であるという。仁右衛門とは東京の弁慶橋を造った御大工棟梁弁慶仁右衛門(一説 大左衛門)のことで,背中一面に弁慶の刺青があったから名を得たのであるという。
京雀第5には,鞍馬口にあったとき弁慶が腰かけたと見えるが,今のは青みをおびた立石である。弁慶が投げたところ約2.5kmも離れたこの地に飛んできた石という。五条大橋から投げたとも比叡山から投げたともいう。新京極三条を西へ約150m,モータープールのすみにこの石が置かれている。三条通に面してはいるが約2坪ほどの空き地である。
その由来書にはー
この石は弁慶が幼少のころ住んだ三条京極にあって,弁慶がとてもかわいがっていたが,義経を守って奥州へ逃げ,高館で立往生の最期を遂げた悲運の豪僧“弁慶”をしたって,その死後,京極から奥州へ移されていた。が,この巨石,ある日突如として大声でどなりだし“三条京極へ往かん”とわめき出したのだという。その奇跡と前後して高館地方に熱病がまん延し始めた。
人々は「弁慶様のたたりだ。この石を弁慶様の生まれ故郷にかえそう」と約500年前の室町時代,享徳3年,三条京極に移し,以来当町を「弁慶石町」と名付けた。その後,石は,明治26年3月,町内の有志により同町へ引き取られ,昭和4年にこの場所に立てられたということがかいてある。「男の子がさわれば力持ちになる」「火魔,病魔からのがれることができる」と言い伝えられ,町内の守り神としてまつられてきた。
「昭和初期,協和銀行が藤原呉服店から買い取って,前面の三条通に移動させ,比叡山からお坊さんが祈祷にきたという。」
幅約2mの座石に,高さ約1.5mの弁慶石が乗っている。狭い三条通の一角。立ち止まって見るという風情もない。

 

瓜生石

瓜生石は現在の知恩院前にあって,柵で囲ってある。巡査に聞いてみたが,あることを知らなかった。
伝説によると,祇園の神(八坂神社)は播磨の広峰から東方に飛来してこの石に降り給うたという。最初に降りたこの石の上で,石の上は一晩で瓜が生え,その蔓の上に神が降りたことになっている。祇園牛頭天王の額が降りたともいい,瓜に牛頭天王の文字が現れたともいう。貞観2年6月14日の深夜,その後すぐ今の東山区粟田口粟田神社に移したという。粟田神社は祇園感神院の被管であって,明治維新ごろまでの粟田祭では瓜生石の上まで神輿を舁いて行き,石上に置いていた。深夜,松明を点じつつ瓜鉾(一に降鉾)を奉持して氏子区域を回るのは神発見のときの意思であるといわれ,瓜鉾は瓜生石に一夜でのばした瓜の形にかたどったものであると言う。
この石を別名慈鎮戸もいうという説があるがどうもあやしい。
瓜生石本体はやや白〜灰色のチャートの層を含んだ複合岩体で,接触変成岩のようで,岩石コンプレックスとなっている。チャートと石灰岩が熱によって複合的にからみあった状態になっているようだ。石英脈のように見える脈がはいり,珪灰石のような組織がみえる。ともあれ,京都の石であることは明らかであろう。
それは慈鎮和尚が石の上に腰を掛けて「我恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり」という和歌を作ったことによるという。その石は書院の庭にあるのが正しいという。

 

臥牛石  中京区寺町御池下ル本能寺内

中庭の北に鎮座している。やや緑がかった石で南西方向から見ると座って休んでいる牛の姿にみえる。古いことは確かで,石の割れ目が入ってそこを修理してある。
加藤清正寄進という木製の看板がついていた。清正公は法華経の信者であったので,寄進された石だとの言い伝えがあると寺の人々がいっていた。
この庭を整備している加藤造園の社長さんである加藤彌壽雄氏の話では,「清正公が韓半島から持ってきたということで,韓国へ戦いで渡ったときのみやげだという話があるけど,信用できないと思います。」ということであった。確かに石の種類は緑泥片岩がである。
同様な石は同じ中庭の約10mほど西にも一つあって,その横には紅簾石片岩も一つある。やはり社長さんによれば「昔京都の出雲路橋の横にあった石屋さんが,近くの屋敷にあったものを持ってきたらしい」ということであった。
本能寺の庭には,たくさんの自然石があって,そのほとんどが京都北山で産する緑色岩類,チャートなどである。臥牛石と日本産で,和歌山の中央構造線沿いの結晶片岩であろう。京都では少ない結晶片岩の自然石なので一見に値する。
結晶片岩は,広域変成岩の一種で,地下で広範囲に熱と圧力を受けて,物質が再び結晶しなおした岩石である。再結晶率が低く,新しくできた再結晶がほとんど雲母であるものを千枚岩といい,それより変成の度合いが強くなるに従って雲母片岩−緑泥片岩−石墨片岩などになり,花崗片麻岩となってついには花崗岩となっていく。紅簾石片岩は,石墨片岩と花崗片麻岩の間の変成度を持っている。

 

臍石  中京区六角通烏丸東入る頂法寺内

烏丸六角に「ろっかくさん」ということで親しまれている「紫雲山頂法寺」というお寺がある。生け花の家元・池坊流発祥の地である。
創建は聖徳太子だという。その境内に“要石”とか“へそ石”と呼ばれる石が埋められている。
平安遷都のとき,町の中心に当たるこの地の基準を置き,ここを起点に条坊が決められた。その点を示す石だそうである。
京都新聞社発行の『京都伝統散歩』という書物には以下のような文章がある。
『ある日,聖徳太子が山背(今の京都)にやってきた。大阪・四天王寺建立のため,その用材を探しに来たのである。慣れない山歩きに,今は疲れ果てた太子,一服しようと場所を探していると,近くの森に美しい水が湧いているではないか。
とるものもとらず,衣服を脱ぐと,飛び込んで,ひと浴びした。旅のアカをすっかり洗い流したところで,さて,衣服を着ようとしたのだが,不思議なことが起こった。
太子は,いつも首から一寸八分の如意輪観音像をさげていた。水浴びのために,そばの木の小枝にかけておいたのだけれど,いざ,首にかけようとすると,如意輪観音像が木から離れない。
「こりゃあ,不思議なことがあるもんだ。うん,コラショッ」
そんなところに,農夫が通りかかって太子にいうのである。「ああ,なんと美しいのだろう。木にムラサキの雲がかかっているじゃありませんか。ありがたや,ありがたや」
太子は,早速にこの木を切らしてお堂を建立,像を安置した。のちの六角堂である。
この話はまた後日談がある。平安京の町づくりが行われたときだった。東西の小路が一筋,この寺につきあたってしまった。
「太子ゆかりの寺を移転するのはおそれおおい。といって,このままでは…」
勅使は思案にくれて,「この地を離れたくないと思し召すなら,何とぞ南北,いずれかにご動座ありたし」と,祈った。
そのときである。にわかに紫雲わき起こり堂を包み,見る間に北に動いた。無事,通りは貫通したのだった。』
平安京当時そのままの位置の所は,堀川と東寺南門の石段であると称せられる。臍石は京の真ん中に当たるのでその名があるといわれ,六角堂の門前往来の真ん中にあった。のち当方の脇門の内部に入れたが,子どもがつまづいてころんだりするので,昭和5年に地面と同位に下げた。石畳の参道の中央にあって,中央に穴のある六角形の石である。明治時代には17,18両日の六角堂の縁日に蝋燭を上げて参拝する人もあった。
伝説によると,聖徳太子開基の以前から同堂の内に神石があって,延暦の都市計画のときにはその石を中心として条理を制定した。そこで京都の臍に当たるというのであると。一に要石ともいう。石灯籠の台石であるともいうが,そうでもないらしい。
岩石種は,京都に多い花崗岩である。

 

鏡石

天神川の上流,左大文字山の山すそに鏡石橋,鏡石公園などがあり,金閣寺から鷹峰に向かう道は,「鏡石街道」と呼ばれている。このあたりの町名を衣笠鏡石町という。
鏡石町という地名は,道路横の崖で見られる,硬い岩「鏡石」から起こったという。この鏡石は表面が磨かれたように滑らかで,鏡のように光るという様子を呈していた。
古今和歌集にある紀貫之の「うば玉のわが黒かみやかはるらん鏡の影にふれるしら雪」の歌は,鏡石のことであるといわれ,『都名所図会』(安永9年〔1780〕)には,「鏡石は金閣寺の北紙屋川のうへにあり石面水晶のごとく影うつすをもって名とせり」との記述がある。鏡石は平安時代から知られていた。
崖を作っている岩石の種類は,普通チャートと呼ばれるもので,海底にたまった珪酸が固まったもので,形質の殻をもったプランクトン化石を多く含んでいる。硬い岩石なのだが,この岩石が鏡のような平面ができ,かつその表面が磨かれたのは,断層運動によってだと考えられる。活断層によって岩石が割れ,両側がずれることによって岩が磨かれて鏡面ができた。こうした近くの運動が京都盆地を作ったのだという。

 

硯石  高雄神護寺参道

清滝川に架かっている高雄橋を渡ってすぐ登り坂となる。その曲り角に大きな石があり,石垣に守られて鎮座しているのが硯石である。この石には,弘法大師空海についての説話が残っている。
嵯峨天皇が空海に「金剛定寺」という寺の門額を書くよう勅使を送った。空海が神護寺で修行をしていたときのことである。その時清滝川が増水していて勅使が渡ることができなかった。空海は向こう岸で「渡っていただく必要はありません。ともあれ金剛定寺と書けばいいのですね」といい,筆に墨を含まれると空に向かって字を書いた。墨は飛び散ったが,はるか向こうの金剛定寺の門額の文字として表れたという。
この時用いたのがこの硯石だという。石の種類はやはり○である。

 

その他

 市役所前石柱  比叡山緑石  同志社紫石

帰りに近くの弁慶石とへそ石を早速見学してきました。

弁慶石は,ビルの入口の階段の下にあり,案内板がなければ,庭石かオブジェにしか見えません。

へそ石は,六角堂の中にあり,六角形に整形された石の真ん中に丸い穴が一つ開いています。柱の礎石のようにも見えます。

このような企画を考えつくところが,京都です。歴史があり,益富地学会館のある京都らしい企画です。早く完成してもらいたいものです。

  
弁慶石 へそ石
弁慶石
へそ石

へそ石
桓武天皇の延暦12年(793)京都へ遷都の時,六角堂の所在が道路の中央にあたったので天皇が遷座を祈願されたところ,御堂がにわかに5丈ばかり北へ退かれたという。
この石はその際に取り残された礎石であると伝える。また京都のほぼ中央の当たるところからへそ石とも要石とも呼ばれている。

辧慶石の由来
この石は辧慶が熱愛したと謂はれ辧慶は幼少の頃三条京極に住み死後この石は奥州高館の辺にありましたが,発声鳴動して[三条京極に往かむ」といひその在所には熱病が蔓延したので土地の人が恐怖して享徳3年(約500年前)三条京極寺に移し以来当町を辧慶石町と称するに至りました。
その後市内誓願寺方丈の庭に移りましたが明治26年3月町内有志者により当町へ引取られ昭和4年7月12日この場所に建立されたものであります。   平成8年4月 京都市中京区三条通辧慶石町

 


 鳥取県若桜産ヒスイ輝石に伴う糸魚川石の新産状について

下林典正(京都大学大学院理学研究科地質学鉱物教室)

*以下は配布資料より抜粋

鳥取県若桜産ヒスイ輝石岩中に見出された糸魚川石-パンペリー石共生体

蓮華帯の数地点(例えば,新潟県青海-糸魚川,兵庫県大屋,鳥取県若桜,岡山県大佐地域など)から,蛇紋岩体あるいは蛇紋岩メラジェ中の構造ブロックとしてのヒスイ輝石岩が報告されている。その中でも,鳥取県若桜町角谷産のヒスイ輝石岩は,鉱物学的研究が比較的少ないように思われる。本研究では,同産地のヒスイ輝石岩のEPMAyはXRDを用いた鉱物学的記載を行い,その過程でCaに富む糸魚川石を見出したので報告する。糸魚川石の報告は,原産地である糸魚川-青海地域に続いて,世界で2例目である。

糸魚川石(itoigawaite:SrAl2Si2O7(OH)2・H2O)は,ローソン石のSr置換体であり,宮島ら(1998)によって蓮華帯最東部糸魚川-青海地域のヒスイ輝石岩転石中から発見された。糸魚川-青海地域における産状としては,ヒスイ輝石岩(いわゆるラベンダー・ヒスイ)を横切る幅0.8mm以下の濃青色の細脈中に,ヒスイ輝石の長柱状結晶やソーダ沸石と共生して最大50μmの卓状結晶の集合体として産する(Miyajima et al. 1999)。原産地の糸魚川石は特徴的な濃青色を呈しており,Miyajima et al.によると化学組成はほぼ均質で,Sr/(Sr+Ca)原子比が0.98〜0.96と,Srがほぼ完全にCaを置換する形となっている。

今回報告する若桜町角谷産の糸魚川石も,ヒスイ輝石岩の円礫を横切る幅2−3mmの薄青色の脈中から見出された。しかし,脈の薄青色の部分はヒスイ輝石の長柱状結晶の集合体であり,薄青色の着色はTiを少量含んでいることに起因すると考えられる。糸魚川石は,脈中の中州のように見える数mm大の薄黄色をした斑紋部から見つかった。この斑紋部では,周縁に沿って組成がおよそ(Ba0.97K0.02Na0.01Sr0.02)Al2Si2O8のバリウム長石(セルシアン)が分布している。糸魚川石は,その内側で,主としてパンペリー石と共存した形で存在する。パンペリー石は,数μm程度の幅のlath状の結晶が必ず糸魚川石と互いにintergrowthしたような複雑な共生組織として観察される。化学組成は(CaNa)(Al0.40Mg0.26Fe0.11)Al2Si2.95O10(OH)4でpumpellyite-(Al)に属するが,恐らくこれまで報告されている中で最もNaに富むパンペリー石であると思われる。

*以下は講演資料より抜粋

・ヒスイ(Jade)は鉱物名ではない!

硬玉 輝石族の鉱物の一種であるヒスイ輝石(jadeite)を主体とした岩石(ヒスイ輝石岩:jadeitite)

軟玉 角閃石族の鉱物の一種である緑閃石(actionlite)や透閃石(tremolite)を主体とした岩石(ネフライト:nephrite)


    

輝石とは

化学組成が(M2)(M1)T2O6で表され,TO4の正四面体が鎖状に連結していることが特徴。


国際鉱物学連合・輝石小委員会(1988)に基づく輝石族の分類

A マグネシウム類 輝石  ・頑火輝石 ・鉄珪輝石 ・斜頑火輝石 ・斜鉄珪輝石 ・ビジョン輝石
B マンガンーマグネシウム 輝石  ・ドンピーカー輝石 ・加納輝石
C カルシウム 輝石  ・透輝石 ・灰鉄輝石 ・普通輝石 ・ヨハンセン輝石 ・ペテズン輝石 ・エッセネ輝石
D カルシウム-ナトリウム 輝石  ・オンファス輝石 ・エジリン輝石
E ナトリウム 輝石  ・ヒスイ輝石 ・錐輝石 ・コスモクロア輝石

    

ヒスイの色は?

ヒスイ輝石:NaAlSi2O6 →基本的には無色(要するに白色)
着色の原因 @結晶構造中に置換して入る遷移金属元素
        A微細な結晶粒の間隔に入る有色鉱物
遷移金属元素による着色
緑色ヒスイ:クロム(コスモクロア)あるいは鉄(オンファス輝石)
薄紫色ヒスイ:チタン
青色ヒスイ:チタンあるいは鉄(オンファス輝石)

    

日本のヒスイ産地

@糸魚川ヒスイ 青梅町・朝日町・小谷村・白馬村を含む
A若桜ヒスイ 鳥取県八頭郡若桜町角谷
B大屋ヒスイ 兵庫県養父郡大屋町加保
C大佐山ヒスイ 岡山県阿哲郡大佐町大佐山
D長崎ヒスイ 長崎県長崎市三重町
E神威古潭ヒスイ 北海道雨竜郡幌加内町奔別川
F引左ヒスイ 静岡県引佐郡引左町
G高知ヒスイ 高知県高知市円行寺

    

糸魚川―青海地域で報告された新鉱物(=新潟県下で発見された新鉱物)

青海石(Ohmilite):1973
奴奈川石(Strontio-orthojoaquinite):1974
糸魚川石(Itoigawaite):1999
蓮華石(Rengeite):2000
松原石(Mstubaraite):2000
新潟石(Niigataite):2002

    

糸魚川石(itoigawaite)とは

・宮島ら(1998)によって,蓮華帯最東部糸魚川−青海地域のヒスイ輝石岩転石中から発見された。
・ヒスイ輝石岩を横切る幅<0.8mmの濃青色細脈中に,ヒスイ輝石(jadeite)やソーダ沸石(natrolite)と共生して,最大で0.05mmの卓状結晶の集合体として産する。
・特徴的な濃青色を呈し,半透明・ガラス光沢である。
・理想化学組成はSrAl
2Si2O7(OH)2・H2Oで,ローソン石(lawsonite)[CaAl2Si2O7(OH)2・H2O]の完全Sr置換体である。
・斜方晶系(空間群:(CmCm)に属し,格子定数はa=6.031A b=8.945A c=13.219Aである。
・ヒスイ輝石岩の生成後に生じた割れ目に沿って浸入したSr,Na,Alに富む変成流体からヒスイ輝石やソーダ沸石とともに晶出した。

    

鳥取県若桜町のヒスイ輝石岩

・1965年に若桜町角谷で,中野知行氏(一行寺住職)により大きな転石として発見され,収集された(益富,1966)。
・この地域では,北側に超苦鉄質岩類があり,その南側に三郡変成岩の志谷層(292〜279Ma),非変成の角谷層(三畳紀〜ジュラ紀),また三郡変成岩の八東層(174Ma)が東西に帯状配列している。
・この超苦鉄質岩体は,主として蛇紋岩や蛇紋岩化を受けたダナイトからなる蛇紋岩メランジェで,北傾斜の衝上断層面をもつ南側の三郡変成岩と接する。
・この地域の三郡変成岩は,千枚岩および結晶片岩からなり,パンペリー石・アクチノ閃石帯から緑レン石・藍閃石帯におよぶ低音高圧型である。
・ヒスイ輝石岩は蛇紋岩メランジェ中の構造ブロックとして含まれていたと考えられるが,路頭では確認されていない模様。
・この産地のヒスイ輝石岩には,白色〜淡桃色の灰礬ザクロ石(grossular),黒色のルチル(rutile),淡桃色粒状のジルコン(zircon)が伴う。

    

Pujmpellyiteの化学式

XYSi(10+x)OH(4x)
今回の試料は,(Ca
1.72Na0.14±1.86(Al0.58Mg0.30Fe0.11±0.99AlSi2.9510OH
と表すことができ,pumpellyite-(Al)であるが,Na
O成分を1WT%以上含んでおり,これまで報告された中では最もNa−richなpumpellyiteであると思われる。

    

まとめ

・鳥取県若桜町産のヒスイ輝石岩から糸魚川石を発見した(世界で2例目!)。
・糸魚川石は,ヒスイ輝石岩を横切る細脈中にパンペリー石との共生体として,ヒスイ輝石やセルシアンに取り囲まれるように産出する。
・糸魚川石と共生するパンペリー石は,1.2〜1.7
WT%のNa2Oを含み,これまでの報告の中で最もNa-richであると思われる。
・本産地の糸魚川石は,非常にCaに富む特徴をもち,組成は不均質でSr/(Sr+Ca)比が0.85〜0.51と広範に変化する。
・このことから,ローソン石−糸魚川石間で連続的な固溶体を形成する可能性が示唆された。
・ヒスイ輝石岩の割れ目に沿ってAl,Na,Ba,Srなどに富む変成流体が浸入し,まずは壁面からヒスイ輝石・セルシアンの順に晶出し,その内側に糸魚川石とパンペリー石といった含水鉱物が互いにintergrowthしながら成長したと考えられる。

学術的なお話でしたが,スライドを見ながら説明をしてくれたので,分析の仕方や解析のポイントなどが少しはわかったような気がします。あくまでも「気」だけですが。


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